大津山城(南関町)

私は赤神諒の小説 「大友落月記」を読んでる途中で、肥後で善政をしていた大友第二の宿将。小原鑑元(おばらあきもと)(神五郎)の居城大津山城を登りに行きました。小原鑑元は他紋衆(大友家とは血の繋がりはない)ですが実力者です。大友第一の宿将立花道雪とは義兄弟。

南関いきいき村の前にある大津山公園が大津山城ですが、廃城になっている城は、現地に行っても、情報薄いです。スマホのアプリの地図で行っても、廃城は判りにくいのがほとんどです。

山城なのでひたすら山頂を目指すしかないですが。

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山頂からの景色 登山記帳ノ-トが有りほぼ毎日登っている人がいました。ちょっと疲れるけどちょうどいい負荷の散歩コ-スだと思います。

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山頂の建物跡?

登頂に歩くのに一番簡単なコ-スは、皇太子の植樹記念のモニュメントを車で通り越してダムや池を通り越して、ぐるっと上に登って行くと、駐車場があるので、そこから、歩くといいと思います。

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木の橋が4つあり 歴代城主の名前をつけてありました。

小説では小原鑑元は同紋衆と多紋衆の争いに大友宗麟の近習衆にはめられ、謀反を起こしたくもないのに、巻き込まれ、大津山城の近くの南関城に籠城して滅亡する様です。

赤神諒の大友サ-ガ 小説3冊目ですが、面白いです。小原鑑元は立花道雪と相談する時間があれば、近習衆に(偉くはないけど政治にたけた官僚に近い存在)はめられなかったと思うんですが、大友家は誰かが強くなると引きずり落とす傾向が強く、立花道雪の父も例外でありませんで、失脚しています。父が失脚しているから立花道雪も若い時は、普通なら苦労するとこですが、初陣の時から戦の才能がけた違いの強さなので、出世していくようですが、アレキサンダ-大王並に飽きれるぐらい戦争ばかりしている生涯です。

南関城も見に行きましたが、登り口がわからず断念。

その当時、まだ、薩摩の島津は鹿児島統一してなかったのか、まだ、大友家の脅威ではなかったんでしょうね。毛利家が陶を破った後なので、毛利の方が脅威だと思います。小説見る限り小原鑑元の当時は肥後で南関が番の一要所の印象です。

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このページは、山鹿市管工事業協同組合が2025年10月 6日 17:12に書いたブログ記事です。

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